会長挨拶(2024年5月

    

 会長挨拶(24年5月)

 

盛岡から小本街道(国道455線)で北上山地を登っていくと早坂高原ビジターセンターに至ります。この季節にひっそりと美しく紫色の花を咲かせるカタクリの群生地があります。東北の高原も春を迎えていることでしょう。

 

NHKのテレビ番組新プロジェクトX、「岩手・三陸鉄道東日本大震災からの復旧」と題して、ズタズタに寸断された三陸鉄道を最速の3年で復旧させた人々のドラマが放映されました。

北リアス線と呼ばれた久慈と宮古の間にある田野畑村の島越駅は橋梁ごと流されて復旧に最も苦労したところ、全線開通して島越駅に一番列車が入ってきたときには多くの住民が出迎え、工事に当たった東急建設の責任者が「苦労が報われました」と話されていたのが印象的でした。

 

田野畑村には「思案坂」、「辞職坂」と呼ばれる地名があります。

海岸から山裾までの数kmは河岸段丘の平坦地が河川によって100m以上の深さまで侵食され、そこにできたV字谷を下って登る道路が思案坂、辞職坂です。宮古方面から田野畑村に赴任してくる役人が歩き疲れたあげくに「何でこんなに苦労してまで田野畑に行かなくてはならないのか」と思案したので「思案坂」、それを越えて歩くと今度は絶壁が前途をはばみ、「もう沢山だ、辞めた方がましだ」と思ったところから「辞職坂」と呼ばれるようになったそうです。

 

三陸鉄道の構想は1896年(明治29年)の明治三陸地震に際して、「陸の孤島」と評される地形によって支援物資の輸送ができず、復旧対策には三陸鉄道の敷設(ふせつ)が必要と考えられました。戦前、戦後に徐々に区間開通されていきましたが、国鉄財政悪化で中断、1984年に第三セクターで開通しました。

 

「津波はまたやってくる、100億円もかけて津波に流されるような鉄道をつくるより台地の上の国道45号線にバス停等を整備してバス路線にすべき」と「三陸海岸大津波」の著者吉村昭の奥さんが日経新聞に寄稿されていました。

 

 田野畑村の隣町は龍泉洞のある岩泉町で、かつて本州産業の甘利社長(元当会会長)が町長とのご縁で道の駅の近くに記念植樹されており、田野畑村の北20kmほどの野田村には日本紙パルプ商事が出資している「野田バイオパワーJP」がバイオマス発電をしており、安家川下流には王子木材の野田山林があります。 

機会のあるときに北三陸を訪ずれてみてはいかがでしょうか

                                                      

                               東京王友会会長 加村喜久男